園田 寿(甲南大学名誉教授)
「悪徳」と呼ばれるものがある。主に男性の享楽的・放蕩的な生活スタイルを指す「飲む、打つ、買う」(酒、賭博、買春)が代表的なものであるが、それらが違法であれ合法であれ、「悪徳」はいつの時代にも形を変えながら人間の歴史の影の部分を作ってきた。地球的規模でみれば、その影に対峙しようとする人びとが現れたのは19世紀後半だった。「牧師、医師、記者、活動家」など立場や職業はさまざまだが、彼らは信仰の名において、あるいは衛生、あるいは正義の理念において、「世界をより良くする」という志を胸に、「反悪徳運動」を展開した。
産業革命の波も彼らを後押しした。都市は急速に膨張し、職を求めて人が都会に流れ込み、社会の匿名性が増した。それに比例して、「悪徳」の商品化も進んだ。安いジンは蒸気船に積まれ、薬物が売られ、ポルノは安価な印刷で大量に出回った。売春と人身売買は、都会の片隅で静かに広がっていった。
この状況に危機感を抱いた改革者たちを動かしたのは、宗教的信念だけではなかった。国の衛生、兵士の健康、子どもの未来。彼らは、道徳と公衆衛生の名のもとに、人の欲望に対抗しようとした。
戦争も改革する者の声に説得力を与えた。戦場では、酔った兵士が規律ある軍隊に敗れた(それを証明したのが日露戦争だった)。国家は「健康で道徳的な国民」の育成に本腰を入れた。性病の蔓延は、売春宿の閉鎖や検査制度の導入を後押しし、酒類は禁止された。だが、例外もあった。タバコである。喫煙は士気を高め退屈を紛らわせるとして軍に推奨された。喫煙の習慣のなかった兵士が、戦争が終わって故郷に喫煙を広めた。喫煙の健康被害についての医学的知見も当時はまだ決定的ではなかった。
しかし、運動はかならずしも一枚岩ではなかった。改革者たちは「禁止」か「規制」か、とういことでしばしば対立した。売買春をこの世から撲滅すべきか、それとも管理すべきか。酒は全面的に禁止すべきか、それとも節度ある消費を認め、税を吸い上げるべきか。統一を欠いた運動は、時として「狂信的」、「非現実的」と揶揄され、社会の理解を得にくくなった。
そして、20世紀半ばになって大きな価値観の転換が見られるようになった。「悪徳」はもはや道徳の次元ではなく、むしろ「健康リスク」として語られるようになる。衛生学や疫学が進化し、宗教的熱情は官僚的手続きと医療的知見に代わられた。かつて「セクシーな美徳」として称賛されていた喫煙も、公衆衛生の名のもとに規制されだした。そこにいたのは、宗教家でも革命家でもなく、保健を担当する公務員の冷静な科学的判断だった。
しかし21世紀の今、欲望はまた形を変えて蘇る。「電子タバコ、ネットポルノ、オンラインカジノ」など、新しい「悪徳」がデジタルと市場の波に乗って世界中に広がり、大企業の手で巧みに包装されている。
「悪徳」とは何か。国として何を許し、何を禁ずるべきか。それを最終的に決めるのは、時代の政治であり経済である。欲望を抑えようとする力と、欲望を活かそうとする力が、今もせめぎ合っている。
「反悪徳運動」の歴史は、人間の欲望と秩序とのあいだで揺れ動いてきた営みである。失敗も多かったが、児童労働や性病対策、人身売買(奴隷制度)の廃止といった成果は今も生きている。その志が今後も必要とされることは間違いない。
なぜなら、「悪徳」とどのように向き合うかは、「社会の成熟度を測る問い」であり続けているからである。(了)